全学連シンパから反戦青年委員会へ
二浪目の途中から受験勉強をそっちのけにしてマルクス・エンゲルス・レーニンの古典を読むようになった。受験参考書がまっさらなままなのに「共産党宣言」「賃労働と資本」「国家と革命」「なにをなすべきか」などは赤線で真っ赤っかになる。それを更にマーカーで塗りつぶす。そんなことをしていると偏差値は全然上がらない。第一志望どころか滑り止めも危うくなる。それでもあちこちの集会や闘争に顔を出す。大学は完全に諦めていた。
ひとまず独立するための資金稼ぎに働くことにして、某自動車会社の季節工に応募する。一週間日勤をすると翌週は一週間夜勤になる二交替制勤務で、一日約11時間ライン作業で歩きづめのきつい仕事だ。二三ヶ月で体重が65キロから55キロに減ってしまう。ある人は三ヶ月で体重が30キロ減った。その分当時としては破格の手取りで月30万以上有った。殆どが手当なのだが、勤務して一週間持つとか一ヶ月持つとかで数万の手当が付くくらい、体が持たずに辞めていく人が多かった。鎌田慧さんの「自動車絶望工場」そのままの世界だった。
その最中の三月の三里塚の全国闘争の現場で、僕は某地区反戦青年委員会のキャップに引き合わされた。以降僕の身柄は全学連から反戦に移る。反戦青年委員会について知らない人のために簡単に書いておくと、65年の日韓条約締結とベトナム戦争に反対する社会党系の大衆団体で、労組単位でも個人でも参加出来る広範な物だった。三派全学連の影響を受けて、70年前後には青年労働者の実力闘争団体へと成長したが、それに危機感を覚えた社会党と総評が全国反戦を凍結する。その後は新左翼各派の系列に組織された労働者の組織になっていく。
仕事を持ったために、三里塚には全学連とは別行動で反戦の隊列で行くことになったのだが、結集過程でドジを踏んでしまう。集合場所の駅の改札に到着したとき、眼鏡をサングラスに掛け替えていたために、周りの状態がよく分からない。目の前のサングラス・マスク・帽子の一団に声をかける。名前を尋ねられたので答えようとすると「そっちじゃない」と声がかかる。そちらを振り向くとヘルメット姿の集団が座り込んでいた。僕は私服の公安刑事に話しかけていたのだ。危ういところで気づき、慌てて反戦の隊列に飛び込む。危ないところだった。その後しばらく、この一件でからかわれることになる。
長い反戦派労働者としての人生が始まった。
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コメント
三点を初めて着用したときの感想は、残念ながら思い出せないんです。逆に三点なしで集会に登場するようになってからの不安なら覚えているのですが。90年代に労組交流センターの隊列にいるときは、最初は落ち着きませんでしたよ。
投稿: アッテンボロー | 2005年7月20日 (水) 15時27分
はじめてサングラス、マスク、メットの3点セットを着用したとき、どんな気分だったのでしょう?
なにぶん、経験し損なったという負い目がありますので・・・
投稿: 主義者Y | 2005年7月20日 (水) 12時59分