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2005年8月13日 (土)

日本近現代史のおさらい。その4

 1923年9月1日、関東大震災。死者行方不明者14万人以上。被災者の不安をそらすために警察や軍隊が「朝鮮人による暴動」というデマ宣伝を流し、在郷軍人会を中心に組織された自警団などが中心となって約6千人の朝鮮人と200人の中国人、10人の社会主義者・無政府主義者が虐殺された。虐殺を行ったのは自警団だけではなく、戒厳令で出動していた軍隊、警察によっても行われた。背景には日本の植民地支配によって土地を奪われた朝鮮人が日本に渡ってきて、生きるために低賃金で働いていたことに対して、仕事を奪われたという感情も含めて日本人の多くが差別を行っていたことがある。日頃の差別への報復が為されるのではないかという差別者の後ろめたさがこのような虐殺に繋がった。

 政府が虐殺の報道を禁じたこと、朝鮮人・中国人への蔑視などから世論の批判も弱く隠蔽工作が行われた。逆に無政府主義者の大杉栄を虐殺した憲兵大尉甘粕正彦などに対しては減刑運動までもが行われた。

 22年3月3日には全国水平社が結成されている。1871年の解放令によって賤民身分は廃止されたが、同時に徳川幕藩体制で保証されていた様々な部落産業の特権も剥奪された事で部落民の多くは経済的に困窮していく。融和運動などでは部落の解放が勝ち取れないとして結成されたのが水平社だった。差別糾弾闘争を中心とする運動はやがて国家権力との闘いにまで発展する。軍隊内部での反軍闘争、高松結婚差別裁判事件などの闘いを通じて水平社は勢力を拡大していく。中心的活動家の3・15事件での逮捕投獄などの弾圧も行われた。37年の日中戦争勃発後は国家の戦争体制に協力する路線に転換し、42年には自然消滅してしまう。

 日露戦争後の日本は膨大な輸入超過と対外債務にあえいでいたが、14の第一次世界政戦により戦場となったヨーロッパに変わり造船業・海運業を中心に活況を呈し債務国から債権国に転換する。その好景気も20年3月に株価暴落をきっかけとして恐慌が始まる。政府は産業界の整理よりも救済を優先したため、不良経営の企業・銀行が生き延び、国際競争力は低下してその後の長期不況の原因となる。更に関東大震災による企業救済のための支払い猶予令、震災手形によって戦争後の経営不振企業までもその債務を肩代わりしたために、震災恐慌から金融恐慌へと突き進む。27年3月、若槻内閣の蔵相片岡直温の国会答弁中に経営不振にあえぐ銀行名が具体的に発言され、取り付け騒ぎに発展する。更に鈴木商店とその不良債権を一手に抱える台湾銀行が破綻することで恐慌は悪化する。若槻内閣に変わり田中義一内閣が発足し、高橋是清の手腕によってパニックは収まるが、中小銀行の破綻により五大銀行による金融市場支配体制が確立される。

 後に昭和恐慌によってファシズム運動の台頭、日中戦争への路が敷き詰められる。29年10月のニューヨーク株式市場の大暴落に始まる世界恐慌が一層拍車をかける。インテリのサラリーマン層の失業が問題となり、賃金引き下げや解雇に反対する労働争議が頻発した。農村においては小作争議が激増し娘の身売りも増えた。恐慌の深刻化にもかかわらず、政府は国民に対しては耐乏生活を呼びかけ、産業界に対しては一層の合理化を進めるのみであった。右翼・軍部の政府への不満が高まりテロ事件やクーデター未遂事件が起こり、31年には満州事変が起きることになる。32年の5・15事件によって時の首相犬養毅が暗殺されると、日本の政党政治は終焉した。

 36年の2・26事件では皇道派の青年将校によって天皇親政と反共主義の国家体制実現を求めるクーデターが行われ、多くの政府要人が殺害された。昭和天皇裕仁はこれに対し終始一貫して討伐を主張。下士官・兵を将校と分断することに成功した軍部は、29日に反乱を収拾した。その後反乱軍の指導者達は死刑となり、軍部の実権は統制派が握り、政府に対する干渉を欲しいままにするようになる。

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