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2005年8月10日 (水)

活動家の貧乏生活

 活動家になって防衛の原則の他に、党活動の三原則という物を学ぶことになった。レーニン主義の党組織ではごく普通のことだと思う。会議・機関紙・財政活動をこなすことだ。今回はその内財政活動について書こうと思う。

 労働者になった当初、自動車工場で働いていて、当時としては高卒にとって結構良い収入があったのだけれど、収入についてはいったん全額を地区党に納入することを求められた。そこから家賃と生活費として7万円が渡された。それだけで生活の食費、交通費、活動費をまかなうことが求められた。活動家になった当初は同じ地区の人の部屋に居候していたので家賃は必要なかった。元々服装については無頓着というかオシャレに興味がない方なので7万円でやりくりするときに被服費で困ったことはなかったのだが、大変だったのは食事についてだった。親と同居していたので自炊などしたことがないから料理など出来ない、工場がある日は昼食か夜食を工場の食堂で食べることが出来るのだが、朝食と夕食は自分で何とかしないといけない。最初の内は菓子パンを買ってきて食べるか、居候先に炊飯器があったのでご飯を炊いて漬け物だけで食事をした。

 外食することもたまにあったけれどそうすると一食あたりが高く付くのでどうしても自炊を習得する必用が出てきた。大体はお総菜を一品か二品買ってご飯を炊くくらいだった。当時学生の食生活を聞いたことがあるのだが、食パンのへたを買ってきて、毎日そればかり食べていたりして、あまりに酷いので全学連の鎌田委員長が注意したことがあったそうだ。そのほかにも食べ盛りの学生のおかずを何とか調達するために、餃子のサービス券を集めてきて、それを大量に交換しに行って、お店の一と口論になった専従活動家もいた。

 いつまでも居候するわけにはいかないので、自分でアパートを借りることになった。不動産屋を通して借りると手数料などがもったいないので、図書館で住宅地図を調べてアパートを片端から回って空き部屋が無いか自分で探せと指導された。数軒のアパートを訪ね歩いて、六畳一間に台所、風呂無し共同トイレという物件を見つけ、住人の人に大家さんを紹介してもらって契約をすませた。引っ越し荷物などは元々ボストンバッグ一つの身の回り品しかなかったので、他の活動家やシンパの家庭で余っている布団や炊飯器や冷蔵庫をただでもらった。梅雨時には部屋のあちこちにナメクジがはい回る、家賃一万五千円のおんぽろアパートでの生活が始まった。

 コタツが一つあるくらいの殺風景な部屋でも、約一年半生活した。自動車工場は仕事と活動の両立が難しいので、期間工の期間満了を待たずに辞めて町工場の発送作業や鉄工所の下働き、町工場の事務などを転々とした。一人暮らしが寂しいのでラジカセを購入したら、専従から注意を受けた。一万円以上の出費が有るときは予め会議で承認を得なくてはならなかったのだ。闘争や前進社での会議の際には防衛のためにタクシーを使うので、それ以外の任務の時は出来るだけ歩いた。防衛のための振り・キリを兼ねて二駅も三駅も歩いたり、最寄りの沿線を使わず、別の路線を使うこともしばしばだった。

 家財道具の殆どはもらい物ですましていたが、ある活動家は粗大ゴミの日に早起きして使えそうな物を拾い集めて使っていた。そんな生活をバブル経済が華やかな時代に送っていた。今から思うと革命運動への情熱がなければとても出来なかったかも知れない。

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