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2005年9月 2日 (金)

成田九二八七号

 10・20三里塚戦闘で逮捕されると、僕は逮捕順に漬けられた番号で呼ばれるようになった。成田九二八七号がそれだ。20年前のことだから番号は記憶の間違いがあるかも知れない。千葉刑務所に移送され身体検査をされた、服の一切をはぎ取られ囚人服に着替えさせられる。その際入れ墨などの身体的特徴がないかを調べられる。両手にインクを塗りつけられて指紋と掌紋を採取される。逮捕当時に身につけていた衣類や履き物は全て押収品となる。

 未決勾留房の生活は基本的には一日中机に向かって正座する事を強制されていたのだが、僕は逮捕時に太ももを負傷していたことを理由に長座する事を許可されていた。最初の数日間は本もなければペンもノートもない状態だったので、机に向かってぼーっとするだけの生活だった。昼休みと夕食後にラジオが一時間ずつ流れるくらいで特に変化はない。時折取り調べと称して刑事や検察官が事情聴取を行うのだが、最初の家は黙秘で通していた。刑事達が様々な世間話から僕の口を開かせようと努力していることに対して、僕は刑事の目をにらみつけて黙秘を続けていた。こちらが法律の素人であったために刑事が10年以上の獄中生活を覚悟するよう恫喝をかけてくる。釈放後に刑事訴訟法の勉強をしたら、長くても二三年で出られる程度の微罪でしかなかったのだが、最初は真剣に悩んだ。

 ある時この先どうなるのかについて不安を感じて独房の中で泣いていたことがあった。見回りの看守がそれを見つけ、自白させるのに今がチャンスとばかり取調室へと連れて行かれた。感情が高ぶっていたからとうとう自供を始める。その時点で刑事から検察官に交代が為された。その方が心証が良くなるとか言っていた。住所氏名については秘匿したまま当日の行動については少し供述してしまった。独房に帰ると悔しくて担当弁護士さんに完全黙秘出来ていないことを電報で知らせた。翌日地区の常任が千葉刑の獄壁の外から僕の拘留番号を呼びながら激励に来てくれた。弁護士接見の際に母からの伝言として「息子は間違ったことはしない」と伝えられ再び黙秘を開始した。

 僕はてっきり23日目には起訴される物だと思っていたのだが、逮捕されたのが戦闘のごく初期の段階であり、機動隊三名の再起不能になるまでの戦闘成果を上げた人間ではなく、権力側の証人として取り込むことも出来なかったので釈放されることになった。起訴猶予処分という奴だ。千葉刑の外では全学連の小林書記長が出迎えてくれた。その日は三里塚の現闘本部に一泊した。

 帰りの新幹線では時々動員で一緒になる他所の地区の女性と青年とが乗り合わせた。獄中の話や戦闘の話をしながら帰ったのだが、この時同席した女性は後に僕と恋愛関係になる。詳しい話は後日書くことになると思うが、そんな思い出もあったのだ。

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