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2005年10月 2日 (日)

ルンプロ時代

 某自動車会社の工場の時もそうだったのだが、郵便局に入るまでの約一年半という物は本雇いの労働者、あるいは組織労働者として働いていたわけではない。自動車会社では期間工だったし、人材派遣会社から仕事を斡旋して貰ったりアルバイトしたり、本雇いになった期間もあったが小さな町工場で組合も何もない仕事を転々としていた。85年の春から86年の秋のことだった。

 自動車工場は党活動との両立が出来ずに辞めた。アルバイトは10・20でパクられたので指導部が退職手続きをしてくれた。85年の円高不況で、組合のある工場では正社員にならないかと言われていたのに首になった。小さなプラスチック工場で経理の見習いをしていた時期もやはり職場で労働運動をすることなど到底無理な状況だった。生活のために転々とする状況の中で何とか運動との両立を図ろうとしていた。85年の夏には地区党の方針で郵便局を受験することになる。当時の専従はとても簡単に「君らなら一年もすれば青年部長くらいになれるから」と言ったが、実際にはそんな簡単な物ではなかった。

 兎に角職場を転々としながら、勤務が終了するとシンパ宅への前進の配達と紙代の徴収をしたり、駅前や団地での署名取りをする日々が続いた。週末は前進社に泊まり込んでの会議と街頭宣伝。86年になると泉佐野市での選挙闘争で殆どの休日は費やされるようになる。選挙の過程については別の項を起こすつもりだが、それでもなんとか走り続けたというのがこの時期の印象ではないだろうか。10・20での逮捕の加減で親戚の間を回り、自分が間違ったことをしていないと説明してたのもこの時期のことだ。社会党から市議会議員になった経歴を持つ叔父、全共闘世代の従姉妹、法政出身の従姉妹などは一定の理解を示してくれた。幸いにして運動を辞めろと言う親族からの意見はなかった。当時の中曽根政権の政治に、みんな大なり小なり不安を抱いていたのではないかと思う。

 86年秋に郵便局に採用されるまで、そんな生活が続いた。86年の天皇在位60周年記念粉砕闘争、東京サミット粉砕闘争、泉佐野市議会議員選挙などについては後日書くことにする。

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