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2005年11月10日 (木)

十月の挑戦

 86年の春から夏にかけて、中核派は前年の10・20三里塚戦闘と11・29浅草橋戦闘とによって疲弊していた勢力を回復し、再び秋の過程で機動隊との市街戦を闘う事を目標にして、様々な形で新人獲得に力を入れていた。85年12月の革共同政治集会では北小路敏政治局員が基調報告を行い、10・20の闘いが、67年の10・8羽田弁天橋の闘いによって始まる激動の時代を切り開いたようになると確信していた。実際天皇在位60年粉砕闘争と東京サミット粉砕闘争の過程で、街頭宣伝への反応は非常によい物があった。署名をしてくれた人たちにカンパを提起すると一人ひとりの活動家が万単位を集め、全体の集約で十数万を数えるようなこともあった。だがしかし残念なことに支持はそこまでであった。

 大学での新人獲得は、大量の活動家が獄中にあったり、潜伏生活を余儀なくされたために思うように進まなかった。勿論いくつかの地域や大学においてはそれなりの勢力拡大を現実に出来ていたのだが、全戦線における拡大という物ではなく、大衆的実力闘争を行えるような状態ではないことが確認された。そして開始されていた三里塚の二期工事に対しては革命軍を主力として闘う方針が決定として降りてきた。公然とそれを言うことは出来なかったように思うのだが。

 9月の終わりか10月の始めに、岩手県にある革命軍の非公然アジトが摘発される。俗に言う岩手爆取り弾圧である。アジトにあったとされる様々な押収物品などから警察が発表したのは、革命軍がこのアジトで圧力釜を利用した爆弾を作成していたという物であった。実験によるとその破壊力は大型バス一台を完全に爆破できる強力な物であったという。党は爆弾戦闘を決断していたのだ。残念ながら岩手爆取り弾圧によってこの年の秋は大衆的実力闘争も革命軍による爆弾戦闘もなく終わってしまった。10月の三里塚で集会の後のデモに出発して着々と工事が進む現地の様子を見ると、悔しくて堪らなかった。阻止線を張る機動隊員達はそれぞれが身の丈ほどの長さの樫の棒で武装していた。

 後にこの爆弾闘争への飛躍をさして十月の挑戦と呼ぶようになり、革命軍を全党の力で防衛し抜くことが確認された。

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「経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

キーロフさんの主張にほとんど私は共感します。

>「一般学生」が連想するような、型にはまった>活動家像というのも問題でしょう。

これなんかは、権力がそういうイメージで宣伝してきた四十年だったといえますね。私は、この刷り込まされイメージがあるのとないのでは、そうとうな影響があると思っています。

はっきりいって「問題意識」は一般の学生でもそうとうあります。

しかし、イメージとして、「過激派キャンペーン」はそうとうな重圧だと思います。私だって、中学生の頃の印象では、共産党=ソ連、過激派=人間ではない、こうしたイメーが刷り込まされていたのですからね。ですから、キーロフさんのご指摘は私もそうだなあと思いますね。


>皆さん認めているはずなんですけどね、色ん>な活動家、シンパがいて然るべきだというこ
>とは。

キーロフさんの意識に私は共感します。でないと、再生産できるわけがない。

ところが、それを気に入らない人もでてくるわけですね。詳細はさけますけど、党内部からもそして、権力からもにらまれてしまうということになるようです。つまり固定的なイメージを保持したい方々にとって、色んな活動家、シンパは気に入らないわけです。

しかしながら、私は、そんな方々に対して、欧米の左翼界隈を、お勉強してほしいとものだと思います。

投稿: 日本国憲法擁護連合 | 2005年11月29日 (火) 20時10分

 キーロフさん、色々とご心配いただいて有り難うございます。今し方「国立戦没者追悼施設について」のコメント数を見てみたら、何と84もありました。勿論私や侵略の歴史を許さない立場からの応酬も沢山あるわけですが、本当に長い間かかってしまいました。
 公然・非公然にかかわらず、中央指導部が現場の活動家との関係を密接に築けるかどうかと言うのは、民主集中性が昨日しているかどうかと言うことだと思います。その点で現場のレポートを党に上げる取り組みについて疎かであった私自身も反省すべき沢山の点があります。
 そしてキーロフさんが言われるような色んな活動家、シンパと言うことは本当に問うが「人民の海」を形成できているかどうかだと思うのです。池には鯨は住めません。本当に広範な労働者、学生と結びつくことなくして大衆的武装闘争も革命的武装闘争も空語になってしまうのだろうと思います。
 今の私の立場では病気休暇の問題もあり現実に出来る取り組みという物はあまりありません。それでも、その中で階級的な労働とは何か、共産主義とは何か、について出来るだけ分かり易い現場労働者の立場から語ることで、少しでも左翼的な物の見方を広めることが出来ればと思っています。

投稿: アッテンボロー | 2005年11月29日 (火) 19時57分

久々の書き込みです。最初に書き込まれてから一週間以上も、ウヨが執拗にコメントを続けていた記事があったので、よほどそちらに何か書き込もうかと思っていたのですが、日本国憲法擁護連合さんがほとんど代弁してくださったし、アッテンボローさんも一定の方針を決められたようなので、違う話題を。

確かに指導部の方針が適切でなかった面は多々あるでしょう。一応(?)地下に潜っている指導部ですから、各戦線の現場との認識のズレは当然あったでしょう。

それに、学生戦線などは顕著でしょうが、現場の活動家が日々の活動に忙殺されてしまって、「一般学生」などから遊離した存在になってしまっていてはなおさらです。現役の皆さんがどの程度このブログを見ているかわかりませんが、党や運動の活動だけではなくて、授業・ゼミなどにも出席して、学生だけでなく、今の時代にあっては教員の考えもまたどっぷりと支配階級のイデオロギーに浸かっているのかを突きつけるようなこともして欲しいのですが無理でしょうか? 分厚いシンパ層があってこそ、「過激な」行動も可能になるというものでしょう。「一般学生」が連想するような、型にはまった活動家像というのも問題でしょう。皆さん認めているはずなんですけどね、色んな活動家、シンパがいて然るべきだということは。

投稿: キーロフ | 2005年11月29日 (火) 19時26分

 浅草橋戦闘と爆弾闘争については評判が芳しくないようですね。確かに10・20闘争の方が対権力の実力闘争としては分かり易いしよりー六支持を伸ばせたと思います。その中で何故大衆的武装党を断念したのか、一活動家の立場では分からない点も多々あります。
 草加さんや日本国憲法擁護連合さんの言われるように中核派の指導部の中で路線上の混乱が有るのかも知れません。

投稿: アッテンボロー | 2005年11月29日 (火) 18時44分

>権力公安は活動家の職場や家族への恫喝
>に、いつも「あいつは爆弾犯の仲間」というデ>マをとばすのが常套手段で、

私もそれをやられたことがありますので草加さんのおっしゃることがよくわかります。

>浅草橋襲撃のために、中核派への大衆的支>持は、反権力実力闘争を闘う勢力への支持>から、「なんかよくわからんが、今の世の中を>かきまわしてひっくり返してくれそうな人々」
>への支持というような無政府主義的なもの
>(こういう人は実は大変に多かった)に後退し>てしまったと思います。それがいま一つレー
>ニン主義的な組織建設に結びつかなかった
>遠因ではと思います

無政府主義的・ナロードニキ批判は、レーニン自身が展開しているし、無政府主義的な運動展開はナンセンスだということだと思います。
草加さんの主張に対して私は理解できます。
問題意識のある人が突発的に展開していくのではだめで、労働者階級の組織化という展開をするべきなのだと思いますね。
大きなことをいうつもりはありませんが、中核派指導部は、そのへんをレーニン主義とかみ合わせてほしいものです。

投稿: 日本国憲法擁護連合 | 2005年11月29日 (火) 18時28分

私は圧力釜爆弾は使用されなくて良かったと思っています。使用されていたら、いずれ死傷者が出た可能性もあります。そうでなくとも、いわゆる爆弾闘争は、大衆的支持という観点からは決してプラスにはならないと思います。
権力公安は活動家の職場や家族への恫喝に、いつも「あいつは爆弾犯の仲間」というデマをとばすのが常套手段で、私達はそれを鼻で笑っていましたが、中核派が本当に「爆弾犯」になってしまっては、シャレや冗談ですみません。
カクマル派に死者が出た時でも、街頭情宣で私達を批判する人がとても多かったです。私達としては責任のとりようもないので非常に困りました。もし爆弾闘争で死者が出たとしたら、すべての三里塚勢力がその言い訳に追われることになっていたでしょう。

10・20の闘いは本当に素晴らしかった。私達も内心ではとても喜んでいたし、中核派の権威は非常に高まった。それに参加されたアッテンボローさんにもあらためて敬意を表します。それに対する大衆的な支持を組織拡大につなげていくことは、充分に可能だったと思われます。
しかし浅草橋襲撃はどうでしょう。あれは意図がよくわからなかった。動労千葉が「私達とは無関係」と声明せざるを得ないような闘いはやるべきではなかったのでは?そしておそらく圧力釜爆弾も、使用されていたら、ほとんどすべての大衆団体が「無関係」を声明せざるを得なかったと思われます。
浅草橋襲撃のために、中核派への大衆的支持は、反権力実力闘争を闘う勢力への支持から、「なんかよくわからんが、今の世の中をかきまわしてひっくり返してくれそうな人々」への支持というような無政府主義的なもの(こういう人は実は大変に多かった)に後退してしまったと思います。それがいま一つレーニン主義的な組織建設に結びつかなかった遠因ではと思います。

組織の現状や力量から二期決戦における大衆的実力闘争がくめないという説明は、やや納得しかねるところがあります。私達のような小さな組織でも、大衆的実力闘争の単独決起を意思統一していたのですから。そしてプロ青のような規模の組織(当時すでに100名未満)にまで共に実力決起することを要請さえしていました。このエントリーでの中核派の説明は、プロ青が実力闘争をくめない説明とほぼ同じ構造で、プロ青ならともかく、中核派からこういう説明を聞くとは思ってもいませんでした。ちょっと納得いきません。

また、私達はゲリラ闘争については、「武装宣伝隊」という位置づけでした。ゆえに破壊の規模や武器の威力が問題なのではなく、いかに厳戒をかいくぐって、権力の中枢にまで攻撃を到達させるかということこそが問題でした。
それは大衆的な実力闘争を補完し、大衆運動を組織化していく一環です、大衆的な実力闘争に置き換えて、大衆をただ革命軍を行動を支持するだけの存在にしてしまうのではいけないと思います。

カクマルの存在と、彼らによる背後からの襲撃・敵対については、日本階級闘争に与えられた特殊な試練です。これを並列的にとらえて「内ゲバ主義反対」とは言いませんが、カクマルとどのように対峙するかは、それぞれの勢力にとって、非常に高度な政治判断が問われていたわけであり、そのために本来の対権力闘争がやれなくなってしまったのであれば、やはりそのことに対する主体的な総括が必要ではないかと思います。単に「カクマルさえいなければ」という発想では不充分ではないでしょうか?

私達も天皇主義右翼による血みどろの防衛戦争を経験しています。大型トラックで本部ビルに激突してくる、防衛隊がヤッパで刺される、100人以上で本部への襲撃を試みる、そしてそれを権力・機動隊が防衛するということがありました。しかしあの時に、「右翼との闘いこそが革命闘争である」という「二重対峙」的な発想に陥って、さらなる激突の深化に進んでいたら、それこそ奴らの狙い通り、対権力実力闘争が組めないという、非常におかしなことになってしまったと思うのです。

個人的にはカクマルとの「二重対峙」ではなくて、権力との「一重対峙」に集中していく中にカクマルとの闘いを位置付けていくことが問われていたと思います。70年安保や早大戦争では、それゆえにこそ、カクマルの本質をあぶりだし、彼らが大衆的に孤立・放逐されていく基礎が作り出されていったのではないでしょうか。

投稿: 草加耕助 | 2005年11月29日 (火) 14時36分

 あおざかなさん、今晩は。仰るとおり87年か88年でしたか、党改革の過程で革命軍戦略ばかりを重要視するようになってしまいました。大衆的武装闘争が出来る力量がないことがそれを容認したのでしょうが。残念でなりません。そして同時にカクマルのファシストへの転落が以下に日本階級闘争に大きな負の遺産を残したかと言うことについて怒りが募ります。

投稿: アッテンボロー | 2005年11月14日 (月) 23時38分

60年代から中核派の情勢分析の特徴は超主観的なところにありました。
超主観主義的情勢分析の責任を自ら血を流して大衆行動の最先頭に立ち切ることで果たして行こうとしていたところがよくも悪くも中核派の特徴であり魅力であり一定の支持を得たところなんだと思います。
それがいつのまにか「現代戦争テーゼ」みたいな、ある意味スターリン=ブハーリン的ドグマがもぐりこんでしまったのが問題ではないでしょうか。

それでもアッテンボローさんが書いてらっしゃるみたいに80年代半ばまではギリギリのところで革命軍戦略と戦闘的大衆闘争のリンクが追求されていたように思います。
中核派自らの「新年号論文」によってすら「公然部分のベ平連化」といわれた弊害がでてくるのはその直後でしょう。
私の印象では大衆運動を一番邪魔したのは3.8分裂とそれ以降の赤ヘルの人たちやノンセクトへのテロルや闘争破壊です。
それまでも党派闘争体質はあったのでしょうが、少なくとも戦術最左派であること(軍事路線をのぞく)、もっともたたかう集団であるという一線は崩さなかった筈の集団が(実は70年代後半から崩れはじめていたのですけど)、
自分が取り組む闘いではないという理由で(自らたたかうことなく)たたかう人々をテロるようになりました(代表的には大阪市大杉本寮闘争破壊ほかにもいっぱい)。
これは「カクマル」化とまではいわないまでも(いや、言ってもいいのかも?)、
限りなく60年代後半の民青に近づいてしまった瞬間だったと思います。
大衆的戦術左派であることはそれほどの人々の反感を生みません。
むしろ人々のなかに好ましい分岐を生み出すとすらいえるものでした。
これは自分自身の経験として書いています。
そして私自身の戦争責任ということを強く感じています。
今さら何言ってるんだと言われそうですが。。。

投稿: あおざかな | 2005年11月14日 (月) 22時57分

 Juventusさん、今晩は。超主観的な情勢分析と言われてしまうと返す言葉がないのですが、確かにその様な問題点はあるかも知れません。しかし、私は中核派が提起する「第三次世界大戦への過程が始まっている」という点については今でも信じています。その為に日程の治安弾圧などが色々とかけられているのだと思います。
 労働争議や日教組大会の防衛については異論はありません。唯残念なことに今までの中核派ですとその様な共闘関係はありませんね。と言ってしまうと武装闘争と大衆運動との結合が出来ていなかったことを認めることになりますね。

投稿: アッテンボロー | 2005年11月14日 (月) 21時51分

中核派の武装闘争は本当に大衆運動と結びついていたのでしょうか?浅草橋戦闘など、大衆運動をじゃましただけに終わったのではありませんか?

「前進」は、最近ですら「革命情勢が到来しっつある」などと超主観的な情勢分析をしているのですから、かつての武装闘争も主観的な過大評価に基づいていたのではないでしょうか?

革命情勢が到来していない状況では、武装闘争といっても自衛的なものでなくてはならないと思います。重要な労働争議の現場で、スト破りや右翼や機動隊の襲撃と戦うとか、日教組大会などの場で街宣右翼を排除するとか、そういった防衛的武装闘争を幅広く組織することに力を尽くすべきだったのではないでしょうか。

投稿: Juventus | 2005年11月14日 (月) 19時08分

 Juventusさんの仰るとおりナロードニキは爆弾テロルを始めとする手段を通じて皇帝の暗殺などのテロリズムに走りました。しかし、それは大衆運動と切り離された絶望からの物であるからボルシェビキは批判していたわけです。中核派の場合は革命軍の武装闘争と大衆運動とをいかにして結びつけるのかという観点から闘争を組み立てていました。ですから一概に同じ物として考えるのはそぐわないのではないでしょうか。尤も反戦自衛官の小西誠さんなどはかなり手厳しく批判されていますので私自身が今一度改めて検証する必用はあるかも知れません。開き直って言わせていただければ、私は単なる一兵卒ですから、総路線の問題については党中央が降ろしてきた物をどう実践するかという思考が強かったのです。

投稿: アッテンボロー | 2005年11月13日 (日) 21時11分

もしも中核派指導部が冒険主義に侵されていなかったら、現在の日本はどれくらい違ったかと考えずにおれません。
「10・20三里塚戦闘と11・29浅草橋戦闘」なんて、意味があったのでしょうか。三里塚闘争につぎ込んだ労力をすべて労働運動にまわしていればどれだけの成果があったでしょうか。
また浅草橋戦闘は活動家を獄中に送り込み、分割民営化反対闘争への反感をもたらしただけに終わりました。
爆弾戦闘なんて冒険主義そのものです。中核派は歴史をしらないのでしょうか。ナロードニキのテロリズムに反対したのがロシヤのマルクス主義ではないですか。

投稿: Juventus | 2005年11月13日 (日) 02時04分

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