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2006年1月31日 (火)

沖縄国体闘争と公然登場

 87年の春から秋にかけて政治課題となったのは、戦犯天皇裕仁が国体参加を口実に沖縄の地を踏もうとたくらんでいることをどの様にして粉砕するかだった。84年に初めて登場したロケット弾が、この時期には中核派のみではなく革労協狭間派、戦旗共産同(荒派)でも開発と実戦投入が終了しており、飛翔弾三派として、どの党派が天皇訪沖を阻止するかがスポーツ新聞で話題になるほどだった。特に現天皇の明仁が皇太子時代に沖縄海洋博に参加した際、ガマの中に潜んでいた革労協?共産同戦旗派(西田派)活動家にひめゆりの塔の前で火焔瓶を投げつけられたことが有ったので、県民感情からいっても戦犯天皇裕仁の沖縄訪問に対する怒りは大きかった。前哨戦とも言うべき闘いは、この年の卒業式で、全国で最低である日の丸掲揚率のアップを狙う行政との攻防から始まっていた。現場の教育労働者のみでなく沖縄の各層から反対の声が上がり、読谷高校の卒業式では卒業生が壇上に飾られていた日の丸を実力で撤去してドブに捨てるなどの闘いが勝ち取られていた。

 警察権力は威信をかけた大動員を行い、厳戒態勢を敷いていた。その過程で、許せないことに沖縄の女性に対する蔑視としか思えない通達が本土から派遣された機動隊員などの間に出されていた。内容は、長期間の派遣期間中に沖縄の女性を現地妻としてもてあそんだ場合にどの様にして捨てるかを予め考えておけと言うような物であった。当然にもそれに対する怒りも巻き起こり、政治焦点化していた。

 当時私の所属する分会には、もう一人中核派の活動家が在籍していた。この先輩は今でも現役活動家として闘っているのだが、沖縄国体闘争に決起することを組合員に呼びかけ、カンパを訴えるなどの活動をしていた。私はまだ自分が中核派であることを秘匿していた。九月の分会大会で、先輩が訴えをしたのだが、それに対して同調しなかったことを地区の会議で問題にされてしまった。当時の地区常任の方針では、私は職場の人間関係を築くまで党派性を秘匿するという物だったが、先輩としては折角偶然の人事で同じ分会に私が配属されたのだから、職場で党的に活動させたいと思っていたようである。そして職場政策などについては十分な論議がないまま私は職場で公然登場することになってしまう。後に関西の会議で、安易に公然化してしまったことについて地区常任は相当の批判を浴びたようだ。

 国体闘争その物については私は休暇が取れなかったために参加していないのだが、先輩は約一週間の闘争に参加してきた。沖縄へは船便で行った学生の部隊と飛行機で行った労働者の部隊とがあった。土産話で聞いたのだが、フェリーの中では左翼的な映画の上映会や学習会が開催され、殆どチャーターしたに近い状態であったそうだ。一般の船客の中にもオルグされた人がいたという。那覇港に到着したときにはおそらく全共闘世代と思われる労働者が駆け寄ってきて数万円のカンパを手渡してくれたそうだが、「前進」にその事が掲載されたときには「青年労働者」と書いてあった。一応マルクス主義青年労働者同盟の場合年齢制限は40歳だから「青年」扱いでも通じなくはないが。日本ソフトボール協会会長が日の丸を掲揚しないのであれば読谷村での競技を行わないという恫喝に対しては、知花昌一さんが日の丸を引きずり下ろし焼き捨てるという実力決起があった。戦犯天皇裕仁は結局天皇として沖縄に乗り込むことを諦めた。

 私が公然と職場で決起したのは、この闘争の報告ビラを門前で撒くことから始まった。職場をどの様にして獲得するのかについての方針も何もなく、唯単に一人職場で頑張っていたところに続く者が現れたと言うだけの自己満足的な物だったと思う。組合運動の実践すら何もない人間がイキナリ党派の活動を始めたのだから同僚達はかなり驚いたようだった。お陰でその後私は職場で浮きまくってしまった。たまたま分会役員にはこの年の大会で回り持ちが当たっていたのだが、その後職場で闘争を築こうとする際に後々にまで影響があった。

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「経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

 パルチノフさん今日は。そうですね、決起した活動家の忍耐力と不屈の闘士には敬意を抱きます。

投稿: アッテンボロー | 2006年2月 2日 (木) 16時51分

お邪魔します。
 火炎瓶を皇太子に投げつけた両派の活動家は訪問の1週間程前からひめゆりの塔の塹壕の中に潜伏していたそうです。缶詰等を持参していたとの事ですが相当な忍耐力です。
 事件のニュースはNHKの資料映像で拝見しましたが赤ヘルには白字で「反帝戦線」と書かれていたのが確認できました。

投稿: パルチノフ | 2006年2月 2日 (木) 13時18分

 あおざかなさん今晩は。沖縄国体闘争では活躍されたのですね。学生の場合労働者と違い24時間が運動である濃密な次官を経験されていますから、色々人に言えない問題も労働者の私より多いと思います。でも、全てが問題ではないと思います。止むに止まれぬ事などもあったと思うのです。
 知花賛の決起ですと翌年の大阪での集会あたりは参加されたのでしょうか。右翼が大量に来て結構緊迫した闘いでしたが。いずれ記事にするつもりですが、何かあれば教えてください。

投稿: アッテンボロー | 2006年2月 2日 (木) 00時56分

この年の春、天皇の沖縄訪問だけはなんとかしなければと思い(こみ?)、
もう一つ個人的な事情もあって、まあなんというか「戦争責任」を負うようになるに至りましたが、
8月に沖縄に行って、知花昌一さんから現地を案内してもらいました。それは人の骨であり脂であるというチビチリガマで眼にしたイメージはまだ残っています。
ツッコミどころというか批判されるべきところはたくさんだったでしょうけど、その秋に天皇沖縄訪問反対ストライキ運動に取り組みました。
デモの後、現地の集会で知花さんが涙で絶句されたときに胸をつくような思いがしましたが、その後知花さんはあの行動に出られました(その報道を現地でメシ食いながらテレビで見ました)。
限界はあれ「運動」的に取り組めたのはこの年の過程と、翌年前半ぐらいまででした。

投稿: あおざかな | 2006年2月 2日 (木) 00時41分

 怪星人カピア さんお早うございます。沖縄には三度行ったことがあります。三回とも闘争でした。観光で行った人でさえ基地の現実に怒りを感じて帰る人が多い中、平和行進や沖縄サミット闘争で県民の関心が特に基地問題に向いているときに沖縄に行ったのは良い経験だったと思います。
 怪星人カピア さんと草加さんのお二人の指摘がありましたが、どうやら私の記憶違いのようです。後ほど訂正しておきます。海洋博当時は小学5年生でした。ひめゆりの塔決起についても良く分からないままニュースを見たように思います。尤もその後ちゃんと勉強しておけば間違いはなかったはずですが。

投稿: アッテンボロー | 2006年2月 1日 (水) 09時01分

そうそう、当時はまだ高校生でしたが、ひめゆりの塔の火炎瓶決起はインパクトがありましたね。カピアさんは持って回った書き方をしておられますが(笑)、戦旗西田派の活動家です。
その後すぐに、この活動家は組織を離れられたそうですが、転向したわけではなく、最初から個人決起に近かったと聞いています。今でも現地では英雄だそうです。知花さんの決起のころにテレビでインタビューに応えておられるのを見ました。党派批判めいたこともしておられたと思いますが、すごく「カッコいい!」と思ってしまったのを憶えています。
知花さんの決起もすごく感動的でした。

投稿: 草加耕助 | 2006年2月 1日 (水) 05時49分

こんばんわ、又お邪魔します。
以前自分も沖縄に出向いた事をお伝えしましたが、観光などでは無い、隠された、然し実体として有る直ぐ傍の戦争の現実を有する―正確には強要された―沖縄の姿は、一度見て体験すると、容易に忘れないものとして、心の中に刻み込まれます。
沖縄での現実は、今や本土でも少しづつ、然し確実にリアルなものとなって、迫っています。其の事を考えると、沖縄の情勢は少しも目が離せませんね。
今回のお話の件を補足させて頂くと、75年の7月17日にひめゆりの塔で現天皇―当時の皇太子―とミチコに攻撃したのは、革労協では無く、沖縄解放同盟と、共産同戦旗派(現BUNDの旧戦旗・共産同と分裂、対立している党派で、三里塚では北原派に居ます)です。
兎に角、年月が幾ら経とうとも、沖縄は忘れられません。

投稿: 怪星人カピア | 2006年1月31日 (火) 23時29分

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