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2011年9月 6日 (火)

サムライジャパンとなでしこジャパン

 帰宅途中で煙草を買うためにコンビニに立ち寄ったところ、サッカー日本代表チームのポスターが貼ってあった。そう言えば先月は女子サッカーのワールドカップで優勝したんだっけ、などと思いつつ代表チームの名称について考え込んでしまった。

「なでしこジャパン」は当然のごとく「大和撫子」からついたのだと思うし、本来のおしとやかなイメージとピッチを縦横無尽に走り回るパワフルな彼女たちとのチグハグぶりを指摘する意見があることも知っている。

 個人的というか、全逓奈良地区でのエピソードを思い出したのである。

 僕が組合員になった当時は親組合と呼ばれる本体とは別に女性組合員で組織される女性部と全国大会開催日に30才未満の男性を組織する青年部とが存在していた。京都地区女性部の機関紙が「京女」であるので奈良地区女性部の機関紙に「大和撫子」と付けようという話が持ち上がった。地区の女性部長に対して「男尊女卑の表現だ」と食って掛かったのが「分会長」であった。

「分会長」と言っても全逓の分会長ではなく、今はとある労組の分会長をしている人のことである。

「分会長」は高校生時代に中核派のポスターを見て集会に飛び入り参加し、そのまま活動家になった傑物なのであるが、郵政を受験した時点で活動家であることが当局に知られていたために決まった局に配置されることが無く、巡回要員として在籍していた。普通は半年から一年程度の間に配置局が決まるまでは特定郵便局の職員が出張や年休などで不在になる穴埋めをしながら仕事を覚える。欠員が出来た局に順次配置されるのだが、「分会長」の場合は退職まで十数年間巡回要員だった。組合的には僕と同じ分会に所属していた。

 結果として奈良地区女性部の機関紙の名前が「大和撫子」になることを粉砕したという手柄話を「分会長」から聞かされた。

 前振りはこの程度にしておいて本題の男子チームの「サムライジャパン」という名称の方に入っていこうと思う。

 世の中にはご先祖の自慢をするときに大名家の末裔であるとか江戸時代は武士であったという人がいると思うのだが、それらの人は自らの出自を「侍」だったと言うだろうか?

 多分おそらく「大名家」「武家」「武士」「士族」と言った言い方をするのではないだろうか? 

 気になるのは「侍」という言葉は平安時代の動詞「さぶらう」が転じた物だと言うことを習った記憶があるのだ。「侍従長」などという官職がある様に元来は付き従う者。従者みたいな下級公務員全般を示す言葉だった。変案末期から鎌倉時代などになると下級官人の中でも武芸を持って仕える者を指すようになり、次第に意味が変わっていった。元々は平安貴族に仕える卑しい者というような感じだったのだ。

 だから徳川家康が定めた武家諸法度などに見られるように武士階級は自らを「武家」「武士」と自称した。時代劇などで百姓町民が敬意を持って呼びかけるときは「お武家様」だし、下級の武士や浪人を嘲って呼ぶときは「お侍さん」というケースが多い。少なくともちゃんとした時代考証をしている歴史小説や時代劇では区別がなされていた。

 一体いつから「侍」「サムライ」が尊称というか褒め称える呼び方になったのだろうか? 黒船来航以来外国人の間で日本がサムライの国となったのは分かる。だが帝国陸海軍の士官学校出身者などは自らを「武人」と称したから、近年までは尊称と蔑称との区分があったようである。

「大空のサムライ」の著者坂井三郎は四等水兵として海軍に入隊し、その後海軍砲学校を卒業し戦艦の砲手として勤めていたが配置転換を希望して航空兵になった。

 と、ここまで書いてWikipediaを調べてみたら、鎌倉時代から室町時代にかけては武士の中でも騎馬武者などの上層階級を指した用語となったとある。処が同じ項目では戦国時代に地侍・野武士を含む言葉に転じたという。坂本龍馬などの郷士も侍であることには代わりがない。

 武士などの戦士を賞賛する言葉として「益荒男」「丈夫」(いずれも「ますらお」)・「強者」「兵」(いずれも「つわもの」)・「武士」(「もののふ」)等がある。そして日本刀のことを「武士の魂」とは言うが「侍の魂」などという表現がないことから、私自身は「サムライジャパン」というのは表現として些か疑問である。

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コメント

環境大学新聞 企画 森の講座ってなんだ?どこかのカルトか!?

投稿: 革共同反中央派 | 2011年10月19日 (水) 02時54分

両親は無国籍で昭和20年初頭に日本に再入国し
長野県八ヶ岳の実践農場付近で
生活保護を求めて過していました。
編集長竹林正純(東洋大解放派)は両親と同じで
裏道ばかり追い求めて按摩屋を行って暮していました。

環境大学新聞の編集を行う以前からの事や
昭和69年暴力団関係者の結婚式や
強引に行われた国粋会清水忠の葬儀を
怨でいました。
昭和71年(`96)の酉の市前後特に小石川養生所跡地で
東京と京都に分かれた15代目矢野の娘と息子を呼付け
北朝鮮の3代目候補に泥粥を食べさせる事を画策しました。
勿論、清水の娘2人と共に焚書を行った一人です。
立川と浅草郵便局や都知事公舎それと
バチカン・イスラエル・英国大使館に提出する公文書を燃やし
朝鮮通信使個人が日本の友人に宛てた手紙と一緒に燃やし
嫁はロシア大公が日本の友人に宛てた手紙を燃やしました。
マルクスなどが日本の友人に宛てた手紙も同様です。

投稿: 環境大学新聞  企画 森の講座 | 2011年10月12日 (水) 17時59分

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